はじめまして、TDMCの友人の一人の早川といいます。企業の人材育成に9年ほど関わり、その間に、インストラクショナルデザインを学ぶ機会を得て、今も熊本大学の教授システム学で学び続けています。そんな私が、以前に抱いた素朴な疑問について記載しました。
お題:ある企業の人材育成の現場での素朴な疑問
私が企業の教育現場に異動になったのは、2002年7月であった。社内プロジェクトを一方に抱え、営業部員(製薬企業の営業で、MRと呼ばれる)への知識や営業スキルの教育研修を担うことになった。
最初に驚いたのは、新入社員教育の現場を見たときであった。インストラクターは、PPTを用いて、一所懸命講義をしていた。後ろで見ていた私は、違和感を覚えた。新入社員の2/3は、板書されたものをノートに書きとっていた。残りの1/3は、ボーとしているか、内職をしているか、眠そうにしていた。これは、このインストラクターであるからなのだろうと思い、別の日に別のインストラクターの講義を見学した。そこでは、唖然! 緑色の黒板?に向かって、一所懸命講義をしていた。
教室から戻る、インストラクターは満足感一杯で机に戻る。彼に、今日の講義はどうだったのと聞くと、「まだ、何人かは眠そうにしています。気合が足りないんですよ。」と言い放った。私は心の中で、「そうかな?あなたの講義が面白くないのでしょう?」とつぶやく。
そんなやり取りがあって、少しの時間がたったある日に、教室から戻ったインストラクターが怒っていた。その理由は、「ある新入社員が、今日出題されたテスト問題は、まだ講義を聞いていないところが出題されたと抗議をしてきた。」という。私は心の中で、「そうだろうな、講義をしているのだから、そういわれても当然だよな。でも、そんなMRを現場では求めていないと思うけどな?」と。インストラクターは続けて、「講義を聞いていないところが出されて文句を言われる筋合いはない。彼らは研修終了後に現場に出て、MRとして活動する。MRが教えてもらっていないからできないとは言っていられない。彼らは、自身で考え、自身で調べて、顧客とのやり取りをしていくのが仕事だ。」というのであった。私は、心の中でつぶやいた。「えっ!あなたも現場がどんなMRを求めているかは、分かっているのか!」「でも、あなたは、新入社員が自分で考えて行動するような講義をしていないじゃないか!」と。インストラクターが望む新入社員像と、彼らが行っている新入社員研修には一貫性がないと思えた瞬間であった。そして、少しだけ安心した。なぜなら、インストラクター自身が現場のMRに求めることを理解していないわけではないことが分かったからであった。
そもそも、講義をしても、聞いていない人は聞いていないし、聞いている人も学習していると思えないなという疑問が沸々と湧いてきた。相当前に、私がMRであった頃に研修に参加した時に、今日の学習すべき内容が提示され、勝手に読んで、分かればそれで終わりであった。分からないところがあればそこだけ質問して疑問を解決すれば、本日の学習を終了していた。残った時間は内職をしていたなという記憶がよみがえった。講義される声が耳障りでなければ許せるが、耳障りな場合は内職すらできない苦痛な時間であったことを思い出してしまったのである(目に浮かぶ!!)。
あの頃と、今と何も変わっていないのだと思うと、今の新入社員も可哀そうだなと思えたし、何より、彼らの学習のためにはなっていないと思えた。また、現場が望む新入社員に育成するような方法に変えようと考えた。そこで、新入社員の研修では、一切講義しないという結論を導き実行してしまった。
この続きは、またどこかでお話しする機会があるかもしれません。
「集めて教える」ということの根本に対する問いかけと思いながら拝読しました。
返信削除その帰結として「新入社員の研修では、一切講義しない」は、快哉です。
「(集めて)教えていなくてもできなくてはいけない」のなら、集めて教えなければいいし、
「(集めて)教えなくともできる」のなら、やはり集めて教えなければいい。
そんなお金と、時間(=お金)と、労力(=お金)があるのなら、そのお金を、事後テストの高得点者に1点いくらで分配した方がいいかもしれませんね。
それと「教わらないことでも知っている」のがMRの能力としたら、それを教えることも意図的に入れるのが望ましいのでしょうね。
教わっていないことが出題され、(たまたま)文句を言った新人がその応酬として(たまたま)そのような説教をされたというのは、あまり意図的とはいえなそうですね!
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